1900(40)1ステ「ちく混の成り立ち~公開練習~」
基礎練習デモンストレーション
久しき昔(7/イギリス)(ソルファと歌詞で)
サンタルチア(13/イタリア)(同上)
第九ダイジェスト「M~」(同上)
わが魂は待つ(1)
ローレライ(5)
2002(14)連絡・休憩
2016(44)3ステ「ドイツの歌」&アンコール
ばらの花咲き(16)
眠りの精(2)
夜(28)
神の栄光(34)
七つの子
かわいいあの娘
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昨日、ちく混からも10名程参加して貰っている4月14日熊本であるマーラーの「復活」の
本番指揮者、山下一史さんの練習があった。
マエストロの練習は、ただ対処療法的に音を整えていく様な練習ではなく、もっと本質的に学ぶところが多い、とても良い練習だったのだけど、その中で、我が意を得たりというか、私もちく混にも結構口うるさく言っていることがあったので、敢えて書こうと思う。
それは、「数える」ということ。
伸ばしている音を、ムードで伸ばすのではなく、どこまで伸ばして、どこで切るか、或いはどこで次の音へ移るのかを、まずはちゃんと拍を数え、そしてさらにそれを「音楽的に数える」ことの大切さ。
オーケストラと共演する、つまり楽器と合わせる時には、特によく「数え」ていないと合わないとも仰った。然り。何故なら、楽器の人は、ちゃんと数えるからで、それがごく当たり前だからだ。
しかし結局、昨日、熊本、福岡から色々な結構なベテランも含め合唱人が集まった合唱団だったにもかかわらず、そのことをマエストロから何度となく指摘されたという事は、誤解を恐れずぶっちゃけて言えば、アマチュア合唱人の多くが、ちゃんと楽譜を見て、ちゃんと数えていないという事だ。
ムードで歌っているか、楽譜は見ているけど、ちゃんと見ていない、読んでいない、数えていないという事だ。(練習指揮者としての私の責任でもある)
リズムでも音程でも、数えることは基本。
練習の後、マエストロを囲んだ酒宴に参加させて戴いたのだが(貴重な時間だった!)、その時、音楽は情感より知性、頭だと言う様な事を言われた。その通りだと思う。
「楽譜を読む」という事は「本を読む」という事と、本質的には変わらない。
文字をちゃんと読まないと本の中身が理解できない様に、楽譜も音符をちゃんと読まないとちゃんと歌えない、音楽が分からない。
またさらに言えば、書物でいう所の「行間を読む」のも、楽譜も同じこと。
その文字、或いは音符の向こうに書かれているメッセージは何かを読まなければいけない。
ただ覚えただけの音を歌うのなら子供にだって出来る。いや、むしろ子供の方が上手かもしれない。
しかし「楽譜を読んで」音楽を創ることは、より知性の高い大人にしかできない。
それこそ混声四部合唱などは、それがたとえどんなに簡単なものであっても、本当は既にかなり高いレベルの音楽と言える。伝統的西洋音楽の基礎がそこに既にギッシリ詰まっているからだ。
例えそれを自分のパートだけでも、それをただ覚えて歌うというのは、その音楽を理解したとはとても言えないと思う。それは文字の意味が分からず発音する外国語と一緒だ。
楽譜に書かれている音の高低と長さを理解しながら歌わないと、本で言えば単語一つ一つの意味や、その繋がりであるセンテンスが分らないのと一緒。それが分からなければ、全体の物語や思想が分かろうはずがない。
そして、その最初の基本が、高等数学の、その前の算数の、その第一歩と一緒で、それは紛れもなく「ちゃんと数えること」だと思う。
決して難しい事ではないけれど、そこに意識があるか否か、そしてそれが習慣化されているか否かには、雲泥の差があると思う。
さあ、次は発表会最後の練習、ゲネ・プロ(GP)です。
張り切って参りましょう。
次回の練習
【3/9(筑紫野文化会館)】
1900(40)1ステ「ちく混の成り立ち~公開練習~」GP
基礎練習デモンストレーション(20分)
カノン1曲
久しき昔(7/イギリス)(ソルファと歌詞で)
サンタルチア(13/イタリア)(同上)
第九ダイジェスト「M~」(同上)
1940(15)連絡・休憩
1955(65)3ステ「ドイツの歌」&アンコールGP
わが魂は待つ(1)
ローレライ(5)
ばらの花咲き(16)
眠りの精(2)
夜(28)
神の栄光(34)
七つの子
かわいいあの娘