11月30日の練習
1900(20)基礎
1920(16)讃美歌ARA読み
87A.恵みの光は
1936(17)1ステ
荒城の月
1953(05)水のいのち
1.雨
1958(14)連絡・休憩
2012(48)水のいのち
1.雨
2.水たまり
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いつの間にか、今年も残すところ1か月。練習も3回。
なんか、個人的には、バタバタ過ごした1年と言う感じでしたが。
いや、まだ年末までジタバタしなけれならないんですが。
世間は社会的にコロナ後遺症みたいなものが未だに色濃く残っていて、そして、もしかしたらこの後遺症がそのままアフターコロナとかのスタンダードとかになるんじゃないかと危惧もしていたり。
コロナ前が全て良かった訳ではないし、コロナ騒動がすべて悪かった訳ではない。むしろこのコロナ紀の間で気づかされた事も沢山あって、考え方も随分変わったし、一旦殆ど全てを白紙に戻す事で新たに出来る事もあって、世の中がコロナになってなかったら今こんな風には出来なかっただろうな、考えられなかっただろうなと思う事も沢山あって、そういう意味では個人的には、変だけど、相当恩恵を受けたことも確かです。
一方で当然、コロナの前と後で、全く考えが変わらずに居る人達も沢山居る訳で、やっぱり同じ事をやるんだーと、今まで以上に冷めた目で見ているヤな自分も居たりする。
自分としては、このコロナ騒動をちゃんと検証するにはもう少し時間が掛かるけど、兎に角ただ単に「やっと通り過ぎた、イエー!」みたいな、所謂「喉元過ぎれば」とか、単純に「復活だ!」みたいな事には絶対にしたくないですね。
でも、人間って、やっぱり同じ過ちを繰り返すんだよなぁ。
それでも、そうやってジクジク進化していくものだと信じたいですけどね。
いずれにしても改めて強く思うのは、政府の役人やマスコミの喧伝や社会や世間の「空気」に唯々諾々と従うのではなく、自分で調べて、考えて、自分の行動は自分で選択するという事が、今こそ物凄く必要だと思うんですけどね。
私はそもそも性格が相当の天邪鬼な上に、大学で、それこそ「研究とは今の科学的常識や理論を疑うところから出発する」という訓練を否応なしに積んできたので、余計にそう思うのかもしれないんですけど。
話が変な方に行きました・・・変なついでに・・・
移動ド読みと言うのは、何度も言うけど、結局自分で音を取るしかないというのが原則です。最後に音を自分のものにするのは、自分しかいない。そこにはある意味、誰の助けもありません。自分が正しいと思う音しか歌う事は出来ない。
そして、それを修正するのも自分しか出来ない。自分で間違いに気づく、或いはもっと良い音があるはずと思わない限り、変われない。
そこが、他から音を与えられてそれを憶えて歌う事と、結果は同じように思えるかもしれないけれど、脳の中で起こっている事は、全く違う事だと思います。
それは言うなれば、インコが喋る事と人間が喋る事が、全く次元が違うのと殆ど一緒だと思います。
インテリジェンスがあるかどうかという決定的な違いです。
音楽の中で夫々の音の持つ意味は、移動ドのソルファ、ドレミで読む(或いはそう感じられるか)以外に絶対に分からないと私は確信しています。
そして極端に言えば、憶えて歌う音楽は単なる「再現」だけど、楽譜を読んで歌う音楽は、その瞬間ごとの「創造」です。
「再現」は修正が出来ないけれど、「創造」は修正の連続です。
何事も、本当に大事な事や情報や創造は、結局自分の中でしか生まれてこない。自分の中に作ったり見つけるしかないと思います。
移動ド唱法は、その為の、とても良い訓練というか、その行為そのものにもなっていると思います。勿論、それが目的じゃないけれど。
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【12月14日】(28)
1900(20)基礎
1920(20)讃美歌ARA読み
87B.恵みの光は
1940(15)1ステ
荒城の月
1955(15)連絡・休憩
2010(50)水のいのち
2.水たまり
3.川
4.海