ちくしの混声合唱団

福岡県筑紫野市で活動している「ちくしの混声合唱団」です。
毎月3回、木曜日か金曜日、19時から21時、筑紫野市文化会館を拠点に練習しています。
現在メンバーは40名程。主婦、サラリーマン、学校の先生、OL、学生さん等々。
老若男女何方でも、いつでも練習参加、見学、入団できます。

合唱経験の有無は全く関係ありません。
初心者の方、大歓迎です。
楽譜が読めない方も、とりあえず読んで歌えるようになります。
是非お気軽にお出で下さい。

お問い合わせは、このブログにコメントをお願いします。

2月16日の練習

1900(40)1ステ「ちく混の成り立ち~公開練習~」
 1908(23)基礎練習デモンストレーション(20分)
 1931(19)久しき昔
     (全員ソルファ→各パートソルファ→全員ソルファ→歌詞1,2番)
 1950(10)サンタルチア
     (歌詞→ソルファ)
 2000(05)第九ダイジェスト「M~」
     (前半歌詞→ソルファ→歌詞)
2005(12)連絡・休憩
2017(26)3ステ「ドイツの歌」&アンコール
 わが魂は待つ(1)
 ローレライ(5)
 ばらの花咲き(16)
 眠りの精(2)
 夜(28)
 神の栄光(34)
 七つの子
 かわいいあの娘
  (通し練習)
2043(18)3ステ駄目出し
 かわいいあの娘
 神の栄光
 はらの花咲き
 わが魂は待つ
 ローレライ
 夜


ちょっと早いと思ったけど、私の練習も兼ねて、本番の流れで練習した。
やって良かった。
色んな課題が見えてきた。


1ステの公開練習は、正直まだ手探り。
今回やって分かった一番困難な点は、お客さんには実際に歌で参加してもらうのではない、あくまでも聴くという立場で居てもらう、という実に当たり前な点。
その立場で少しでも「面白い」或いは少なくとも「なるほど」と思わせるにはどうしたら良いかを考えないといけない。その上で、その中に参加してみたいと思わせないといけない。
大学の新入生勧誘のデモンストレーションでも、こんな徹底した公開練習(基礎練習そのもの)はやったことがない。
まだ正直やってみないと分らないなというのが、今の実感だけど、実験的にでもやってみる価値は感じた。
なんか、工夫が必要だな…


3ステは、通し練習。
皆さん、相当緊張してましたね。前回の練習のトラウマもあったかな。
ちょっと緊張しすぎの感はあったけど、決して悪い緊張ではなかった。
というか、本番はもっと緊張しますよね。
その緊張を楽しむ、或いはその中で力を発揮する、緊張そのものが普通になる、そういうことも大事だと思う。
楽しむというのは、決してリラックスするばかりではない。
スポーツや囲碁、将棋、トランプ、麻雀なんかのゲームを考えれば、想像できると思うけど、ゴルフでもテニスでも野球でもなんでも一定の緊張感とか集中力がないとそれが特に大きな試合でなくても楽しくないですよね。
それと、緊張するという事は、実は自分に責任を感じるという事の現れだと思います。
人任せではどうにもできない、自分でやるしかない、という時に緊張しますよね。
合唱は沢山の人でやるけど、結局一人一人の集合体だから、実は一人一人の力が試されていて、その結果が現れる。
だから、そういう意味でもいい緊張感だったと思う。
顔つきがちょっと怖かったもんね。でも、やっぱりどこかで締まらないとね。
単に楽に歌って楽しいという、そういう壁を越えつつあると思います。


実は根本的には同じような事だけど、練習の中で言いましたが…
今日の練習を聴いて、改めて今のちく混で一番良くないところは、音の切りが悪いという事。
自分がどう歌い出して、そしてどう収めるかをもっと鮮明にイメージしないといけない。
特に、どうしても「歌う」(楽器でも一緒だけど)時に、歌い出しは結構注意するのに、歌い終わりに関してはそれに比べると、信じられないぐらい雑になることが多い。
音楽は、全く音のない真っ白な空間から音が発することで産まれるわけだけど、同時に最後には必ず音がなくなって同じように真っ白な静寂に戻って初めて音楽として成り立つ。
どんなに長大なシンフォニーでも、最後の音がなくなって初めて完結し、全体としてどういう音楽だったのかが判明する。
流しっぱなしの音というのは、音楽にはならない。
始めたものは責任を持って終わらせないといけない。
開けた幕はちゃんと閉じないといけない。
産まれたものは、ちゃんとした死を持って終わらせないといけない。
そういう、自分が出した音に対する責任感というか、落とし前をちゃんと付けるという事が大事。
その為の重要な目印になるのが、楽譜、音符。
楽譜に書いてある音符、それがどこまで伸びているのか、どこで終わっているのかを良く見て、まずはその通りにやってみる。
その時に大事なのは、自分の意志でそれをやるという事。
良く言われるように「揃って出ましょう」或いは「揃って切りましょう」というのは、実は間違い。
それぞれのプレーヤが自分の意志でもって「ちゃんと出たら、揃った」「ちゃんと切ったら、揃った」というのがホント。それと「揃うように出た」「揃うように切った」とでは、音楽的にはプラスとマイナス位の雲泥の差がある。
これはずっと以前に九響のコンマスの扇谷さんからも同じ事を言われました。
「アマチュアはこれが出来ないから信用できない」って。
キッツいなぁ。でも、当たっていると思うし、でもアマチュアでもやろうと心掛ければ必ず出来ると思う。
でもそれぐらい自分が出す音に責任が持てるかどうかという事でしょうね、結局。
で、それが一番わかるのが、実は「切る」そして「出る」ということだと思います。
何度も言うけど、物事を終わらせることの大事さ。
大袈裟に聴こえるかもしれないけれど、それぐらい「音を切る」という事には、大事な要素が詰まっていると思います。
そして、その「切る」の裏返しが紛れもなく「出す」であって、これは実は全く同じ意味を持つ。「ちゃんと切る」と「ちゃんと出る」ということは、同じこと。
どうか、そこに意識をもっと傾けてください。
上手い下手ではなく、音楽そのものの質が全く変わると思います。


だけど、いずれにしてもこれはどっかで一回と言わず、皆さんが身に付くまで、練習しようと思います。
それぐらい大事な事なんで。


もう一つ大事な事は、これも当たり前の事だけど、2人以上のアンサンブル(合唱でも合奏でも)になったら、必ず相手がいるという事。
会話の時に一方的に喋っても会話にならないですよね、それと一緒で、指揮者も含めて、一人で勝手に喋らないで、皆でコミュニケーションを取りながら結果として一つの音楽を創っていかなければいけない。
主張と協調を上手にやらないといけない。
自分の音楽だけをやりたかったら、それはカラオケボックスに言って、物言わぬカラオケの伴奏に乗って自分の好き勝手に歌えば良んです。カラオケは例え伴奏と言っても決してアンサンブルではない。ま、文句を言わんから気楽ちゃ気楽だけど、正直面白くない。
同じことが、実は、それを聴いているお客さんに対しても、言えること。
こっちの方が遥かに難しいけど、とにかくお客さんとも何らかのコミュニケーションを取ろうと思いながら音楽をやらないと、一緒に音楽を共有できない。
それは、上手い下手の問題じゃないんですね。
やっぱりどの位、お客さんの事も考えながら演奏するかって事になると思います。
自分勝手な音楽は、どんなに立派な音楽でも受け入れてもらえない。


長くなりました。


次の練習も今回の練習のようにやると思います。
少しずつ完成度を高めつつ。



【2/23】
1900(40)1ステ「ちく混の成り立ち~公開練習~」
 基礎練習デモンストレーション(20分)
 カノン1曲
 久しき昔(7/イギリス)(ソルファと歌詞で)
 サンタルチア(13/イタリア)(同上)
 第九ダイジェスト「M~」(同上)
1940(15)連絡・休憩
1955(65)3ステ「ドイツの歌」&アンコール
 わが魂は待つ(1)
 ローレライ(5)
 ばらの花咲き(16)
 眠りの精(2)
 夜(28)
 神の栄光(34)
 七つの子
 かわいいあの娘





×

非ログインユーザーとして返信する